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HARD BLOW !

もうひとつのJBC裁判 谷川俊規氏の場合 ご本人登場編5

今回は非常にパーソナルなことに触れる内容です。
「ボクシング界の秩序を乱した」ということは(そもそも『実際に乱したのか?』を今も裁判で争っているところなので根本からおかしい問題設定ではあるのですが…)かくも罪深い行為なのか?取材記者の歪んだ正義感に鼻白む生々しい体験談です(旧徳山と長谷川が好きです)

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谷川俊規氏御本人による手記

これまでBについてはいろいろ書かせて頂きましたが、今回は『説教くん』ことAに関して書きます。Aと私は、小説仲間として一緒に作品を見せ合ったこともある仲だったのですが、一体彼は小説も含めて文章で何がやりたかったのか?今となっては、謎と言わざるを得ません。さて、ここに一つの文章を紹介します。私が書いたものではありません。

「一言言わせて頂けるのであれば、葉っぱも枝も幹も全部をしっかり眺めて行動して欲しいと思います。腐った葉も痛んだ枝もあるかも知れないですがどんなところに生えどんな状況なのか?」

これは今年1月にAに対してある人が書いた文章(Aには誰か分かるはずですし、この文章が書かれた状況も分かっていると思います)ですが、同じ事を私もAに対して言いたいです。全体を見る目こそ文章を書く人間に一番必要なものではないのか?彼が志していた小説の世界では、特にそうだと思います。一面的な見方で書かれた小説がどの程度のものになるのか、Aが知らない訳がないのです。
 2010年の秋に、私はJBCに入ってボクシング界を風通しのいいものにしたい、と決心しました。決めると早い。12月には退職を時事通信社に伝え、当時のJBC関西事務局長を通じてJBCの職員になれないか打診をしました。結果は「空きがない」というものでした。私は引きませんでした。結果として、「試合役員として手伝うのでどうか?」という案を出されました。それを正職とするなら生活は成り立たない。まあ、でもいいか、と思いました。元々、贅沢を好む人間では私はありません。妻子はいましたが、節制すれば数年は蓄えでいけるのでは、と計算しました。そのうちに、熱意も通じてJBCに入れるだろう、と。
 しかし実際は、大企業だった時事通信社を辞めた後、ほんとうに、あっと言う間にそばにいたはずの人たちはいなくなりました。結局、私の存在価値は会社のブランドにしかなかった、ということを知ったのはその時です。去った人の中には、WBOやIBFに挑戦する者がボクシング界の秩序を乱す、とそういうボクサーを報道するマスコミに怒り心頭だった当時の西日本協会の会長さんもいます。
彼に私は「だったら、WBOやIBFを全部認めたらいい。そうすれば、抜け道などなくなる」と助言しました。いや、助言だけでなく、同協会の理事会で、WBCが認められた経緯をきちんと説明して、なぜ抜け道がなくなるか、の説明をしました。その案がJPBAのその冬の総会で出されたのはご存知の通りです。彼らには、目からうろこ、だったはずです。敵対していたモノを受け入れることで、すべてが丸く収まる、ということに気づかせた訳ですから。当然、この時の報道は私の独走でした。特ダネとしては、会社を辞める前の最後の奉公だったかもしれません。
 私がWBO、IBFを認めることを西日本協会に進言したのは単純な理由です。ほんとうに、同じ階級で一番強い者を日本で見たい。それだけでした。それは今も変わっていません。だから、今年の4月、JBCが両団体を認めたことは喜ばしいと思っている一人でもあります。
 Aの話に戻りましょう。さて、時事通信をやめ、次の正職もなし、の状態でAに私は相談しました。神戸駅近くのドトールかどこかで。「フリーで書ける媒体ないですか」と。今、考えると情けないですが、まあ、泳げないと気づかずに深い海に飛び込んでいたのですから仕方ない。Aは同情してくれていたようでしたが「紹介できるものはない」と、ここだけはきっぱり私に言い放ちました。私も、根拠はなかったのですが、JBCへ早い時期に入れる気がしていたので、彼の冷たい答えにも『そりゃあそうだ』と思っただけだったのを覚えています。
 実際にそれから1ヶ月半後にはJBC職員になってましたから私の予見も大したものだったのですが、ここではAの話です。今年4月末に、AはJBC裁判に係わる原告側に関係ある人物の多くに質問状を送りました。その中に「2011年夏に谷川俊規氏から聞かされた『ボクシングを含む格闘技を包括する新たなコミッションを設立し、手始めにIBF、WBOを承認してJBCに対抗し、将来はJBCをも統括するコミッションとすべく活動する』旨の証言」とAが記しているものがいくつかあります。
改めて、言うまでもないのですが、その時期、Aが私のことを真剣に思って考えることなど有りえなかったでしょう。そんな人物に、これほど刺激的な発言をするほど私は抜けてはいません。現実には、あれほど入りたかったJBCから内部抗争のあおりを受けて、勤めて2ヶ月しか経っていない7月に解雇通知予告をもらった際、Aに今後の話をしようとした、というだけです。その際、Aは「谷川さん、僕は聞けないですわ」と、なんの話もさせてもくれませんでした。そういう人間だったのか、とがっかりしたのは覚えています。まあ、それも生き方。それが、2年近く経って、前出のような話を聞いた、ということになってる。一体あの夏、どこで聞いたのか、教えて頂きたい。幻聴でしょうか?
 あまり長くなってもいけないので、先を急ぎます。最初に、他の方が書かれたAに対する文章を引用したのには理由があります。Aは、今も述べたとおり、私が解雇予告通知(のちに撤回)をもらうことになったJBCの内部抗争(この通知により、現JBC事務局長ら数名はこの年の12月に厳重注意処分をJBCから言い渡されている事実も記しておきます)に全く関心を持ちませんでした。よって、現事務局長らが画策した第2コミッションのことも、いまだにAはほとんど知らないのではないでしょうか?あれは、記者会見までして、JBC職員の引き抜きまで予告した、まさにクーデターでした。それに、何の関心もなかったのに、なぜ突然、JBCの内紛に興味を持ったのか。まあ、それはともかく、最初の引用の文章どおりです。『葉っぱも枝も幹も全部をしっかり眺めて行動して欲しい』-これがAに対して言えるすべてです。
 今年2月14日のバレンタインデー、新しい職を得て2日目だった私。妻は、ほんとうに喜んでくれていた。職がない状態のままなら、2人の私の子供(当時1歳と3歳の男子)は今、話題の待機児童になるところでした。昨年のJBC解雇から始まって、衆議院選挙の中傷による出馬断念。どこまで落ちるのか、と思ったのが救われての一家団欒のお祝いをしていた日。その日に、Aはまさに不幸の電話を寄越したのです。あの日、妻は必死になってAにすがりました。「そこまで人を不幸にして楽しいのか!」とAに電話口で迫った妻。Aは平然と「お好きにしてください」と言い放ちました。その直前の妻の言葉は、「私たちが死ねば満足するのですか」でした。だから、Aは私たちに、この世にいなくなってください、と言った、と私は思っています。ちなみに、Aの予告どおり、翌日発刊の「ボクシング・マガジン」に私を名誉毀損する記事が出たのは、それこそご承知の通りです。
 妻は、現在「ストレス性不眠症」の診断を受けて、心療内科への通院をあの日以来、続けています。あの日までは、少々のことでへこたれなかった妻が、です。そして、今月の15日。また、同じことが起こるのです。14日の夜に、Aは私の元にまた電話してくるのでしょうか?