
練習後の疲れた斉藤選手を拉致して(笑)実現したインタビューでしたが、少しでも彼のイメージが伝えられたかどうか…なにぶんつたない文章なので自信がありませんがいかがでしたか?
この日は、私含めた数名で三谷ジムにお邪魔したんですが、私たちと斉藤選手&三谷会長とのやり取りを、加工せずにそのまま掲載するやり方も考えました。
しかしやっぱり、個々のコメントや背景について、いちいち色々書きたくなってしまうので(笑)、今回このような形で私が書かせていただきました。
ボクシングファンの楽しみの一つに、リアルタイムでお気に入りの選手の成長を見届ける楽しさがありますよね。
前回と比べてここが良くなった、いや逆にここが悪くなった、などと好き勝手言いながら、勝って喜び負けて落ち込み…けっこう心臓に悪いんですが、これはやめられません。
「休日には何を?」という問いに対して斉藤選手は、「う~ん、、、特に、、、」と、無理やり何か答えようとしてくれましたが、今は、というより、6年生で初めてグローブをつけてからずっと、ボクシングのこと以外考えてないんでしょう。
決して長いとはいえない貴重な現役生活。悔いのないよう精一杯燃焼して欲しいと思います。
今後も斉藤選手は勿論、色々な方のお話しをご紹介したいと思ってますので、よろしくお願いします。
(ウチ猫)
7月9日の前日だったでしょうか。
日課であった拳論を開いて見ると新しい記事がアップされていました。
拳論ファンとしていつもは楽しみにしていたはずの記事でしたが、この時ばかりは驚きました。
そこには早くも「ファンによる市民団体発足」と書かれていたからでした。
ファンの会はこの時点では名称も代表も今後の予定すらもほぼ白紙の状態でしたし、記事を書いたK記者も立場上この会には参画しないと明言していましたから、尚更驚きでした。
拳論が出発の会である事に間違いはありませんし、記事として取り上げて頂ける事は大変にありがたい。
しかし、第2回目の会合を控えたこの時点では、何度も申しますが何も決まっていないと言っていい状態だったのです。
私にとっては、集ったメンバーの合議の末に決定されたものであれば、市民団体でも市民サークルでもファンクラブでも良かった。ただ、対話による理解と納得をモットーとしたい私は、圧力団体を連想させる市民団体という言葉は避けたかったというのは本音にありました。
しかし反面では、市民団体として対立軸を明確にした方が運動は起こし易いという意見は容易に理解出来ます。
ただし、これはあくまでも集ったファンの中から出るべき意見であり、合議の末の決定事項でなければなりません。
さすがにこれは意見しなければならないと思い読み進めると、さらには「野次馬の集まりになるおそれ」という批判的な言葉が続く。
私には何も始まっていない会に対して、ましてや何も報告もしていない時点でのこの決め付け方は、あまりにファンをそして集ったメンバーを馬鹿にしている、この上から目線は何なのか!と感じました。
発起人の一人としては正直、集った方々に申し訳けないという気持ちもありました。
拳論が既成事実のように会の性格を明確に記述する事は、イコール「拳論が主体」という錯覚を生み、集ったファンの自主性を奪う事になりはしないか?
ここで紛糾させるのは如何かとも思いましたが、まさにこれからという大事な時期でしたから、一晩思案した末の会合当日の早朝、これはあくまでも個人的な意見とした上で次の趣旨のコメントを投稿しました。
「市民団体という言葉は会の中から出たものではない」
「それを決定事項のように書かれた事の意味が理解出来ない」
「何も始まっていない会に対し(敬意も無く)野次馬の集まりとはどういうことか?」
「現時点では静かに見守って頂きたい」
実際には4時起き氏の口から「市民団体として対立軸を明確にするべき」という発言は出た事がありましたが、それについて会の中で議論された事は(少なくともこの時点では)一度もありません。
K記者と4時起き氏の間では、水面下で構想が練られていたのかも知れませんが、この時点では4時起き氏は代表ですらないのですから決定権はありません。
第三者から見れば単なる意見の食い違いに見えたかも知れませんが、7月1日の件がありましたから、私にとっては会の成否を決する重要な分岐点であると思われたのです。
言葉は努めて穏やかににしたつもりでしたが、主体者としての強い決意と思いを込めたつもりでした。
しかし、ここから始まる不可解な、そして異様とも思える現象が巻き起こります。
なんらかの意図を持った仮面の怪物がその姿を現す前兆は、第2回目の会合中に突如として4時起き氏の携帯から発せられました。
続く・・

全日本新人王獲得時以来のランク入りを果たした斉藤選手。これからは一戦一戦がタイトルマッチへとつながる道であろうが、次戦の相手に決まったのは、石川昇吾選手(新日本木村)。
実は石川選手、斉藤選手が初黒星を喫した興行に出場している。
ベテランランカーの涼野康太選手に挑み、負傷判定で敗れているが、個々のテクニックでは互角の勝負をしており、これはなかなかいい選手だ、とチェックしたのを覚えている。
そして昨年9月、キューバのアマ王者・エルナンデスと「1ラウンドもてば10万円、2ラウンドで…」といった条件の、「お前はバレロか!」と突っ込みたくなる賞金マッチで対戦し、先にダウンを喫するも、見事逆転の5回TKO勝ちで、一躍名を上げた。
ともに前戦で格上相手を喰った形になった両者だが、今回リスクがあるのはランカーとなった斉藤選手であろう。
━石川選手の印象は?
S「何試合か映像を見ましたが、気持ちの強い選手だと思います」
S「9勝3KOという戦績以上にパンチがあると思うので、一発のチャンスを与えないように気をつけないと」
涼野戦ではむしろ、いい勝負をしながらも、なにか消極的な印象を受けた戦いぶりだったが、確かにエルナンデス戦では心身の逞しさが増していたように思える。
M「気持ちが強いと言っても、司より気持ちの強い選手はいませんよ。小さい頃から、フナ食ったり雑草食ったりして生きてきたんですから。強いて言えば坂本博之(現SRSボクシングジム会長)くらい」
※ここからは具体的な戦術等の話になったが、いくら素人のブログとはいえ、試合前にそれらをここに書くわけにはいかないのでご了承ください。
当然、負けるつもりはないだろうが、その後具体的な計画は何かあるのだろうか。
M「スカッと勝って加藤(善孝選手。現ライト級王者)に挑戦しますよ。挑戦状も出しましたから」
ええっ!マジで?これ書いちゃたらまずいっすよね?万が一石川選手が見たりしたら「俺のことは眼中にないのか!」って怒るだろうし…
M「いや、出してもらってかまいませんよ(笑)石川選手に決めた理由を言いましょうか?それは単純に強い選手だから。ある関係者は司が負けるんじゃないかって言ってます。僕もエルナンデスを倒した映像見て強いなと。でも、そういう選手とやると燃えるんですよ、司が。当然、石川選手も燃えるタイプだからいい試合になるでしょ?」
M「もちろん簡単にに勝てる相手と思ってるわけじゃないですよ。その強い石川選手を司がどう崩していくか。そういう相手がさらにやる気になって、その上で勝つことに意義があるので、どんどん書いてください」
チャンピオンに挑戦状を出しているとは驚いた。
しかし知将・三谷大和のこと、ランク入りして資格を得たから挑戦状を出してみた、ということはないはず。
斉藤選手のことについては、5年くらい先まで見据えた育成計画を作っている、という話を以前聞いたことがあるが、今回のブランクも復帰戦の勝利も踏まえて再度組まれたプログラムの中で、「勝算あり!」の手ごたえがあるのだろう。
いよいよ今年、勝負をかける年となるか。
前後しますが・・
6月25日にはそれぞれ問題意識を持ったファンが集い、この時は顔見せ程度に終わりましたが今後画期的なものになると思われました。
その後ファンの会掲示板では、会の名前や具体的な方向性が議論されましたが、なかなか捗らず時間だけが過ぎて行きましたので、早い時期に2回目の会合を持つ事を提案しました。
当時ファンの会はメンバーの選出や選考方法に明確な基準が無く、4時起き氏が立ち上げたサイトに送られた参加希望者のメール内容を元に選ばれていました。
4時起き氏は飲食業界でもそれなりに名の知れた企業の役員さんという事と、プロレスラー死亡事故の問題を追及する会の代表として陣頭指揮を取られて来た経緯から、一定の信頼をおける人物と思われていましたので、サイト管理も当初から一任しておりましたし、何れは代表選があれば推したいと私は考えていました。
このサイトは誰でも閲覧できる表向きの掲示板と、別室と命名された本メンバーのみの掲示板との、言わば二重扉になっていて、これは当時予想されていた妨害を防ぐ為に設置されたものでした。いささか面倒ではありますが、会が正式に発足するまでの措置として仕方のない事でした。当初は全員が仮名を名乗る事になったのも、無用なトラブルを防ぐ為です。
しかし、1日も早く扉を開けて具体的な方向を示し、多くの方々に参加を呼び掛けたいと考えておりましたので、先ずは会としての結束を早める必要がありました。
ところが前回に書いた通り、7月1日のK記者の発言により、私は拳論をバックボーンにすべきではないと考えるようになりましたので、会としては独自路線を強調すべきとずっと訴えてきました。
彼の爆弾発言は私だけでなく、その場に居た4時起き氏、ウチ猫さん、いやまじでさんも聞いていたわけですが、場合によっては会だけで無く、拳論が取り上げたJBC問題が根底から覆る可能性がありましたし、改革派の方々にも大きな影響を及ぼすと考えられましたので、これはオフレコにすべきという空気はありました。
ひとつには重要な情報源である拳論からこの時点で独立してファンに何が出来るのかという懐疑がメンバーの中にもあった事も事実でしょう。
しかしK記者の発言内容が事実であり、これが表に出たとしたらファンの会の空中分解は避けられない。
たとえばK記者の勢いに任せての戯言だったとしても、それはそれで体を張る事さえ厭わない純真なファンを愚弄するものです。
私は会の発起人の一人として重大な責任を感じていました。
拳論の記事が発端となって始まったファンの会であった事は事実ですし、メンバーのほとんどがこのブログの読者であり、またシンパでしたから拳論とあえて反目する必要も無く、「その事」には触れず穏やかにそして緩やかに会を着地させたいと考え悩みました。
そんな中でファンの会は7月9日東京上野のルノアールで第2回目の会合を持つ事になりました。
議題は代表の選出と会の名前を決定する事、そして具体的な活動と柱となる今後の会の方向性です。
私は未だ何も決まっていないファンの会でしたが早くも正念場がやって来たと覚悟しました。
K記者とは会の件ではすでに連絡を取り合ってはいませんでしたが、業界関係者の方々とは僅かばかりの親交がありましたので不安はありませんでした。
ここから皆で苦労して道を切り開いて行くのだ。
ネットを超えて勇気を持って集ったファンだ。
遠慮する事などない。ファンが最大の顧客である事に自信を持とう。
そしてファンがボクシング界の最大の理解者になればいい。
その為には対話だ。
これなくして相互理解などあり得ない。
業界とファンの間には互いに溝があるという。
ならばそれを埋める作業をしよう。
圧力ではなく、やはり対話だ。
これさえ忘れなければ、何故ファンが行動を起こすのか理解もされよう。
私の結論はここでした。
あとは私のやる事は熱を伝えることのみでした。
皆で白熱の議論をするのだ。
何が正しい方向なのか自分たちの手で模索しよう!
私は会のメンバーとして、そして主体者として、こう主張しようと考え7月9日を迎えるつもりでした。
続く・・
私たち一行は東京駅近くのコインパーキングに車を止め、海鮮居酒屋屋に入りました。
すでにこの時には2ちゃんねるでの実況は止んでいました。
私としてはまだこの日の仕事を終えてはいませんでしたが、皆ここで解散という空気になりましたので警備ごっこも「もうこの辺りでいいだろう」と思いまして、ビールを注文しました。
ここ二日の緊張が解放され疲れがドッと押し寄せて来ましたが、頭の中は動き出したファンの会の事で頭が一杯になっていました。
「これはもう一度原点に帰って情報収集と議論を重ねなければならない。時間をかけてやるべきだ」
そんな事を思いながらすでに降格となっていたY事務局長の話題になった時です。
Yからの反撃は有り得るのだろうか。スキャンダル写真が週刊誌に掲載され、それが引き金となって事務局長はクビになったという事でしたが、K記者がこれに絡んでいる内容の話しを本人からもコミッション役員からも聞いていました。
実際、その週刊誌を「僕は10冊買い友人らに配りましたよ」と言うとK氏は「ありがとうございます」と言いましたし、あるコミッション役員も「あれはKさんでなかったら出来なかった事です」と言いましたので、おそらくはその通りなのでしょう。K記者は業界でも一躍脚光を浴びる存在になったという事でしたし、その後はジャーナリストとして飛ぶ鳥を落とす勢いになっていた事と思われました。
私はずっと彼がそうなる事を願い、これまで微力ながらお手伝いをして来たつもりでしたし、どうであれ友人であるという思いに変わりはありませんでしたが、このJBC問題については多くの利害関係の無い人たちを巻き込んでいる以上、冷静にならなければならないと考えました。世の常としてスキャンダルで始まった事は単なるスキャンダルで終わってしまうと思えたからです。
また水面下で改革派とY派の駆け引きがいまだ続いていると聞いていましたので、私たちにとっては後任人事が気になるところです。
これはどんなに足掻こうと所詮ファンは蚊帳の外ではあります。
しかし、問題があると聞いた以上は皆が望む理想的な人事と組織改革をして貰いたいと願う心は誰にも妨げられません。
Y氏は降格になったものの解雇とはならず(それはそうでしょう。表に出た根拠がスキャンダルの域を出ていないのですから)復権の可能性もあるという事でしたので、改革派の理想とする組織になる為に、またY氏の息の根を止める為にも「追撃の二の矢三の矢はあるのですか?」とK記者に聞きました。
彼は「今は答えられませんが、あります」と言いましたが、それに続く言葉に私は頭を打たれたような衝撃を受けました。
「アレだって僕がわざわざ○○まで行って取って来た物なんです」
ここではそれが具体的に何を指すかは書きませんが、その「アレ」とは、改革派役員の内部告発の一つとして拳論でも記事になった、重要な証拠とされるものです。
その「アレ」の、証拠としての能力について言えば、正直不正を暴く根拠としては乏しいものと思われましたが、Y氏の個人的資金流用が他にもあるのではないか?と思わせる効果はありました。
それはどうでもいい。
問題なのは、その「アレ」が、正真正銘のオリジナルではなく、K記者が某所で調達してきたいわば「ニセモノ」と呼ぶべきものである、ということです。
一つの根拠を証明する為に、ゴシップライターの世界では良くある話かも知れないし、彼のこれまでの手法はそうだったのかも知れない。
しかし、この世に存在しないはずの二つ目の「アレ」を以って、改革派の告発の根拠とすることは社会的に許されない事ではないのか?
万一法廷での争いになった時にその「嘘」が発覚したとしたら、全ての告発の信用性までもが疑われてしまうのではないか。
それを知ったファンは振り上げた怒りの拳をどこに降ろせば良いのか?そして誰が責任を取るのか!
その証拠の真偽を問うても今さら仕方の無い事。
しかし、そこに一つでも虚偽があったならば私には「許されない事」と思われたのです。
彼の一言で熱病集団の中にいた私は一気に醒めました。
この時、拳論発のファンの会は「終わった・・」と思いましたが、ファンを巻き込んだ以上引き返せない。これを昇華させる為にはどうしたら良いものかと考えました。
私は皆の前で「Kさんも記者の立場があるという事ですし、僕らも一旦拳論から離れメンバーが業界関係者に直接会って話しを聞くべき」と努めて穏やかに提案しました。
いやまじでさんやウチ猫さんのいるこの場で「彼が信じられないのだ」とはさすがに言えませんでした。
自分一人怒りを胸の内に沈めてファンの会を成功させる為にはどうするべきかを考えました。
私は感情が直ぐに表に出る性質でしたので悟られまいと必死でした。
本当のファン主体の会を作るべきだ。正しい情報を元にして進むべきだ。自分たちで苦労して道を探すべきだ。
「対立よりも、ファンによる対話を軸とした会にしましょう。業界関係者の折衝には僕があたります。会合にも出席して貰って生の声を聞きましょう。出来る限りやってみます」
葛藤渦巻く心中をひた隠し私は努めて穏やかに言いましたが、K記者はこれを曲解しました。
彼からは僅かな反論がありましたが、すでに私も聞く耳を持っていませんでした。
「大変なことになった・・」
私の思いにこの時はおそらく誰も、いや一人を除いては気付いてはいなかったはずです。
唯一K記者のみが、「私が何かに気付いたと」この時に感じた事でしょう。
彼にはそういった嗅覚の鋭い所があるのだと思います。
続く・・
後楽園ビルを出て直ぐに遭遇した、最大危険人物と思われていたK・H氏。その彼の前を注意深く通り過ぎました。
私が先導する一行は、ドームホテルグランドフロアの人混みを避けて、あえて外階段から二階に上がりエレベーターホールを目指しました。本来なら最短のコースで目的の地下駐車場に向かうべきですが、こちらのルートの方が人通りが少なく、また通路が狭いため危険を察知し易いからです。ところが途中、ホテル催事の為か設営がされていて二階エレベーターまでたどり着けません。前日の下見では無かった事でこれは予想外でした。
仕方なくUターンしてふき抜けの中階段を降りて避けたかったホテルロビーを通過し一階エレベーターを使わなければなりませんでした。
思わぬ時間ロス・・
K記者らを無事に車に押し込むまでは緊張の糸が切れません。エレベーターを待つ時間、私は夏だというのにシャツの下には冷たい汗をかいていました。しかし、傍で見るとここからはまるで映画の追跡シーンのような展開がスタートします。
エレベーターのドアは地下一階に着いて開きました。身辺警護の最後の山場です。
そこに最大の敵と思われていたK・H氏が一人でまたもや立っているではありませんか!
二度目の遭遇です。
K・H氏は眼光も鋭くこちらを見ていましたが、近づいて来るわけでもなく私たちが通り過ぎるのをただ見ていました。周辺に人影が無いか注意深く観察してからミニバンに一行を乗せ私は車を出しました。
運転席には私。助手席にはいやまじでさん。後部座席にK記者、4時起き氏、ウチ猫さん。
しかしここでK・Hが接触を試みないという事は追跡が目的なのか。重なる遭遇は単なる偶然ではなかったのか。しかしだとしたら襲撃メールとは一体何だったのか?犯行予告をしたり、姿を眼前に現したり・・私の頭の中は?マークで埋め尽くされました。
冷静に考えよう・・
襲撃を本当に考えるなら事前に察知される行動をする訳がない。相手が本気では無いのか、そうでなければ、考えたくないがやはりこれは・・
車中、K記者はどこえやら携帯で話し始めました。「特に何もありませんでした・・それらしい人物の追跡らしきものはありましたが無事です・・」
ホテル駐車場を出る車は混んでいて数珠つなぎになっていましたから、それもあって私は多少いらつきながら「Kさん今どこに電話したんですか?」と聞きました。
「習志野警察です。普段相談に乗って貰っている刑事さんです」
これが事実だとしても、私の中の直感が私の中の疑惑を更に深いものにしていきました。
しかし、私としてはどうであれK記者を無事自宅まで送る事がこの日の仕事でしたから、一応は追跡に備えて後続車を観察しながら運転をしていました。水道橋を出て東京駅に向かいそこで食事を取ろうという事になりました。ところが・・
後部座席がにわかに騒がしくなりました。
「2ちゃんねるに追跡の状況が書かれています。今、水道橋を出た・・」
「本当だ!書かれている!」
不可思議な騒ぎの発端はまたもや4時起き氏です。
私は運転しておりますので確認など出来ませんが「何故2ちゃんねる?」と思いました。
この緊迫した状況であの2ちゃんねる掲示板を見る神経が解らなかったのです。
後部座席に彼らと並んで座っていたウチ猫さんはパニックに陥った事でしょう。
途中、私達の車の後方には二台の白い高級セダンが飯田橋あたりまで追随する形になりましたので、私は乱暴な運転をさらに強めてあっという間にこれを引き離しました。
考えれば無抵抗な後続車両をまく事など容易いわけですが、念のため交差点でトラックとトラックの間に強引に割り込み、今度はスピードを落として白い高級車が行き過ぎるのを待ちました。運転者の顔を確認する為です。一台はまったく身覚えのない中年男性が運転する車でもう一台は途中の広い交差点で普通に左折して行きましたので目の悪い私には確認出来ませんでした。
「あるとすればこの中年男の一台だけだ・・」
すると今度は「飯田橋まかれた」と書かれているというのです。
追跡者が運転しながらの書き込み?・・ありえない。見えない後部座席に同乗者がいるのだろうか?
私は右折車線からいきなり交差点を直進するなどしてこの車を振り切り、更にスピードを上げると、後ろに追いてくる車両はもうすでにありませんでした。
しかし・・実況はさらに続きます。
「今、大手町。発見」
やはり、あり得ない。私はこの時、以前にあったある事を思い出しました。
何かの折にK記者、4時起き氏、ウチ猫さん、私ほか、計6人で、習志野郊外の焼き肉店で食事をしている時でした。4時起き氏が突然携帯を見せて「尾行されています。Kの他5人で焼肉だなと書かれたメールが来ました」
たしかに携帯のディスプレイにそうした文章が表示されていたので、私もウチ猫さんもパニックになりました。
このような怪メールを見せられたのはその後何度もありました。
後楽園ホールでも忘年会の席でも・・
「K記者と4時起き氏には不可解で得体の知れない組織が付きまとっている」と思わされていました。
4時起き氏によると「SUBUD(スブド)」なる組織の仕業と言う事でしたが、まったく興味がありませんでしたし、にわかには信じられませんでしたので、その後も「またメールが来ました!」と見せられても「ああ、大変ですねぇ」と答えていました。
しかしこの日(7月1日)からは、そんなワケのわからない組織の仕業ではなく、この二人(K記者と4時起き氏)が何かを企んでいるのではないか、と疑念を抱くようになるのです。
私はK記者に多くを語らずに一言だけ言いました。
「Kさん、(今回のような事は)これが最後ですよ」
体を張るような事件にファンを巻き込む事も、あるいは妄想や狂言にも付き合う事はもうしないという意思表示です。
彼の顔からは笑いが消えていました。
しかし、この日はさらに衝撃的な言葉を彼自身の口から聞く事になるのです。
続く・・
ファンの会第1回目の会合を終えた直後、K記者にごく近い人(女性)から1本の電話がありました。
「実はお願いがあるのです。Kが7月1日の後楽園ホール(芹江対瀬藤戦)に行くのですが、襲撃予告メールが来ました。2ちゃんねるにも襲撃を予告する内容の書き込みがありました・・」
この方から私に直接連絡がある事は滅多にありませんでしたので、よほど切羽詰まっているのだろうと思われました。当然この電話の意図は「Kに対し、当日会場に行かないように説得してください」ということであろうと思った私は、色々考えを巡らせた上でこう答えました。
「Kさんも覚悟の上でホールに行くのでしょう。おそらくはジャーナリストとして如何なる脅迫にも屈しない態度を見せたいのだと思います。Kさんを止める事は僕にも、いや誰にも出来ませんよ」
ところが彼女が繋げた言葉は意外でした。
「いえ、そうではなくて・・Sさん(4時起き氏)も一緒なので一人でも多い方が安全かと思いまして、貴方にもホールに行って貰いたいのです。お忙しいところ大変に申し訳ないのですが・・」
たしかにK記者とは友人ですし私は彼のファンを自認し公言もしています。
友人の為なら盾ともなりましょう。
しかし、彼女の女性としてのこの感覚がどうにも腑に落ちない。
何故なら、これまでの私たちの交流から、私にはまだ幼い子供がいる事を含め、家族や仕事のことなども彼女は知っているはずだからです。
分別のある大人の女性(ひと)がこんな事を他人に頼むだろうか?
私は「本人から連絡するように言われたのだな」と直感しましたので、解りましたと即答しました。
K記者は大柄な元格闘技経験者で、私も僅かながらのボクシング経験と身を守る術を習っていましたので「まぁ、何とかなるだろう」と考えていました。
ところがです。
翌日には例のファンの会サイトに4時起き氏による「Kさんに襲撃予告メールが来ています。当日来れる人はホールに来て下さい」という旨の書き込みがありしました。
正直、驚き、そして戸惑いました。
「この人たちはどういう感覚の持ち主なんだろう・・ファンの会のメンバーにもしもの事があったならどうするのか・・いや、それよりもファンを巻き込んで何がしたいんだろう?」
初めて私が不信感を抱いた瞬間です。
しかし私には4時起き氏を代表にする意向がありましたので、言わば守る立場であります。
複雑な思いはありましたが、こうなったら全員を守らなければと飲み込みました。
私はそのサイトに次の内容の書き込みを直ちにしました。
動線(K記者が当日歩くであろう順路)と身の安全の確保は私がやります。身辺の警護は私だけで充分なので当日はKさんには近づかず遠巻きにして観察して下さい。万が一の事があった場合は(経緯も含めて)全員が証人となれるように一部始終を見ていて下さい。ビデオ撮影が出来る方はお願いします」
前日には電車で来場するというK記者の安全な順路を確認するため、水道橋駅からホールまでの間を往復し危険箇所がどこにいくつあるかチェックしました。
犯行があるとすれば会場内ではまず有り得ないだろう。往路とエレベーター内。復路はホール階段の雑踏。前方よりも後方を重点として・・
さらには彼女に連絡をさせた?彼(K記者)の男としてのプライドも守らなければならないと考え、往路は彼にも気付かれないように配慮しました。
身辺警護としては万全ではありませんが、私は私の出来る限りの準備をして当日を迎えました。
自身の身の回りの整理や家族の為のその後の準備は言うまでもありません。
当日は午後6時に水道橋駅近くのルノワールでK記者と4時起き氏が合流となっていましたので、1時間前に行きもう一度下見をして彼らの到着を待ちました。
しかし、予定時刻を過ぎても彼らの姿が見えないため二人の携帯に連絡を入れましたが電源OFFになっていたのでしょうか、「電波が届かない場所か・・」とのアナウンス。
時間と場所が変更になったのかと不安になり、初めにこの件を連絡して来た方に電話してみました。
「私は仕事で行けないのですが・・。それより携帯はまた妨害されているかも知れません」
この女性に罪は無いかも知れません。しかし・・お話しになりません。
私はこの時うすうす「これは彼の狂言ではないか」と感じましたが、しかし万一にもと思い直し、受けたからには今日一日は最後まで責任を遂行しようと決めました。
無事に会場入りするとファンの会からはウチ猫さんといやまじで(HN)さんが緊張の面持ちで来場されていました。途中みるみる(HN)さんらと歓談していらっしゃいましたが、私はあえてご挨拶はしませんでした。
この時はすでに本気モードに突入していましたので、とてもそれどころでは無かったのです。
みるみるさんにはこの場をお借りしてお詫びしたいと思います。
さて、試合観戦は終わりこの日のクライマックスを迎えます。
一番危険だと思われるホール階段の雑踏を抜けた後、東京ドームホテルの地下駐車場に止めてあった私の車にK記者、4時起き氏、ウチ猫さん、いやまじでさんを無事誘導するだけです。
やはり何も無かったと思われた時、後楽園ビルを出た所に拳論では悪名高きKプロモーション代表(当時)のK・H氏が携帯を片手に佇んでいました。
すわっ・・
襲撃メールの発信者がK・H氏とは私には判りません。
しかし少なくとも私はこれまでの経緯から、彼か彼のグループがK記者を狙っていると刷りこみされていましたから、敵が眼前に現れた事で冷静さを失いました。
試合が終わった後ですからボクシング関係者のだれが周辺に居てもおかしくない訳です。
しかし、身辺警護に一切の雑念は禁物です。
ただひたすら目前にある危険を素早く察知し回避する。むしろ取り越し苦労ぐらいで良いのです。
皆に聞こえるように指を指しながら「前方K・H!注意!!」
続く・・

「司の復帰戦が決まりましたよ!」という三谷会長からの知らせを聞いた時、それはもう嬉しいに違いないのだが、対戦相手を聞いて驚いた。
日本ライト級9位(当時)、丸山伸雄選手(八王子中屋)。
19戦13勝(4KO)5敗1分という数字自体は凡庸にも見えるが、2010年3月に宮田ジムの熊野選手をTKOで降しランクを獲得してからの戦績は注目に値する。
ランカーとしての初戦がいきなり最強後楽園で、同トーナメントの常連となっている中森選手(平仲)と対戦し、これは1-2で惜敗。その後2試合をいずれも2ラウンドKOで勝利すると、次戦で現ライト級チャンピオンの加藤善孝選手(角海老)に1,2,3ポイント差の僅差で敗れている。
つまりここ最近は、勝つ時はすべてKOで勝ち、負けた試合も、チャンピオン級の選手と互角に近い試合をしているということ。
全4KOのうち3KOをこの5戦で挙げており、年齢も28歳。今が最もノッている時期と思われ、これはさすがに1年のブランク明けに選ぶ相手じゃないだろう、と。
M「みんなに勝てるわけないと言われましたが、僕としては勝つ自信があって組んだ試合です。それは過信ではなく、パターン的にハマるだろうという計算がありました」
━しかし、1年のブランク、敗戦明け、初のランカー相手。相当なプレッシャーだと思うが
S「確かに、負けた後の復帰戦ってこんなに緊張するものか…と思いましたが、前回負けたことやジムのゴタゴタとか、自分はそういう逆境を力にすることが出来るんです。新人王の時も父が亡くなりましたが、そういうものを全部背負い込んで力に変えるんです」
この「力にすることが出来るんです」には、オジサン、正直シビれてしまった。
ハッタリかまして気負うでもなく、妙に大人びて控え目でもなく、当たり前のことを当たり前に説明するような、自然な口調で「力にする」と言いきってしまえる。これが三谷会長の言う「ハートの強さ」であろう。
S「試合では、練習したことが出せたというのもありますが、会長がリングで丸山選手を見た瞬間に、4ラウンド以内で終わらせるから、そのつもりで行け!と言ったのには驚きましたね。実際終わったんですが(笑)」
S「テンプルが有効だというのもその時の指示でした」
アゴが弱い、ボディが効きそう、というようなことは、世界戦前のファンの予想等でも出てくることがあるが「テンプルが効く」というのは素人には出ない発想だろう。
M「今まで、アマプロ通じてもの凄い数の選手を見ていて、それがデータとして蓄積されてますから。歩いてるところを見てその日の体調がわかることもありますよ」
この試合前に、激励を兼ねて久々に斉藤選手の顔を見に行った時のことを思い出す。
負けた試合の出来の悪さや、この復帰戦の対戦相手のことを考えると、どうしてもネガティブな方向に考えが行きがちになるが、彼が出て来た瞬間、そんな鬱な気分が吹っ飛んだ。
「ご心配おかけしました。これからまたよろしくお願いします!」
深々と頭を下げ放った、たったこれだけの言葉であったが、憑き物が落ちたとでもいうような、非常に生き生きとした表情が印象に残り、帰りの車中でも嬉しくてニヤニヤしたことを覚えている。
それでもなお「たとえ負けても収穫があれば…」なんて予想をするとは、まったくもって不届きなファンだと反省する次第(笑)。
少し長くなりますが、ここからJBC問題が発端となった拳論発の市民団体の経緯、その騒動の真実を書き連ねてまいります。
さて、これまで身を隠すように振舞っていた私が、どのような形でワタシ自身を登壇させるかと考えている中で、ここしか無いだろうと思われるきっかけが突然に訪れます。
昨年の6月、彼(K記者)が数年追いかけていた「ヤマ」がとうとう世間に表出するのです。
これは、コミッション役員及び職員らによる告発と言うかたちで公けになったわけですが、ここにK記者も深く関与していたと思われます。
所謂、日本ボクシングコミッションY事務局長解任劇です。
その舞台裏で彼は何をしていたのか・・。
当時、K記者らの運営するそのブログでは、財団法人の現場のトップがいかにワンマンで職員の反感を買っていたか、それどころか愛人の雇用や金銭の私的流用、3.11震災時の職場放棄などが取り沙汰されていました。
これは改革派役員による、20項目にも及ぶ告発というふれこみでしたが、最悪法廷での争いになったような場合を考えると、戦う根拠としては、正直弱いのではないかとも思われました。
しかし、この告発と連動したようなタイミングで、Y局長と愛人とのスキャンダル写真が週刊誌に掲載され、これが引き金となって事務局長は解任となり、一件落着となったはずでした。
これは業界もコミッションも認めた事ですし、局長の人望が一部職員の中に無かったわけで仕方がない。
クーデターとも思われる強引な手法も組織の自浄作用と捉えれば大きな成果があったと思われました。
この解任劇に至るスクープの過程で、そのブログでは読者の間でも「ファンとして何が出来るか?」がひとつの大きなテーマになりました。それぞれがネットの向こう側で真剣に考えていた事と思います。
このブログの読者には、亀田問題とJBC問題は両者の癒着と連動していて、そして裏で操る人物らの影までもが数年に渡って刷り込みがされていましたから、一大事件と思われた事でしょう。
改革派役員と言われた方々が、立場や生活までも賭して立ち上がられたと聞き、これは絶対に負け戦さにしてはならない!ファンはここで何が出来るのか!と悩まれた人は多かったと思います。
私もここが正念場、ボクシングファンの価値が試される時、と覚悟を決めた一人でした。
そして、このブログ上で、ある有名ボクサーが発言したことがきっかけとなり、ついに有志が声を掛け合い集う事になりました。
抗議行動を誰に対して行うのか、デモ行動を起こすのか、署名活動を行うのか、業界関係者との連携は有り得るのか?方向性を決める上で重要な情報はどこから入手するのか?
拳論発となるファンの会の出発はまるで手探りの状態でありましたが、一から作る所にファンの会としての意義があると考えました。
特定の方向性を持った集団と認知されるならば、対立する意見の人らを巻き込む展開は難しい。そのブログは一部協会関係者から反感を買っている面もありましたから、これがバックボーンとされれば協会などの賛同も得難いだろうという思惑もありました。
ここは様々な垣根を超えてファンも関係者も一丸となる時と考えました。
対話による理解と納得が無ければ運動の輪も広がらない。
ファンの会が対立を煽るだけの存在になる事を危惧しました。
それよりもファンが皆で合議し理解と納得さえあれば、カタチは如何ようにも変化出来るし、責任の分担も出来る。
集ったファンが皆当事者である認識に立たなければ、ピラミッド型の組織になってしまうおそれもある。
出来るならば、誰にも縛られない本当の意味でのボクシング界を考えるファンの会を作りたい。
その為にはファン自身がまず自立しなければならない。
私は発起人の一人として真剣に考え構想を練って臨んだつもりでした。
この発起人には後に代表となる4時起き氏(このブログ上のHN)、そして友人のウチ猫さんがおりまして、第1回会合を実現するまでは拳論のK記者と連携を取りながら進めました。
ネット上で広く参加を呼びかけ、将来的には全国のボクシングファンと共に行動する事を目的としたサイトが出来ました。
この時は、あるプロレスラーの死亡事故を検証・追究するという運動の経験がある4時起き氏が快く了承して下さったので、立ち上げから管理まで全てをお願いしました。
その結果第1回会合には、当初の予想よりも少人数ではありましたが、在京を中心に北海道や九州からボクシングファンが集いました。
私にとってはこの際、集った人数よりも熱が一番大事であると考え、ここから有志の輪を拡げて行くぞと固く決意しておりました。
昨年の6月25日はその記念すべき第一歩になるはずでした。
正直な感想を言えば、ほとんどがネットを越えての初対面ですから、打てば響くという空気にはなりませんでした。戸惑いもありましたでしょうし、皆が戦う手法に確信を持っていなかった。
会合中、私はそれぞれの思いを吐露出来るように努めて和やかな空気作りに専念しました。
デモ行動などを支持する強硬派が多ければその流れに身を委ねるつもりでもいました。その方が会として決着も早いし勢いも出る。
しかしどちらかといえば集まったのは穏健派の方々とも思えました。
それでも個々の怒りと問題意識を胸中に秘めている事はそれぞれの言葉からは確かに感じられました。
ですから正確な情報をもとに合議し理解と納得が得られれば、それぞれの大きな力がきっと出るに違いない。
「これは思った以上に責任は重大だ。社会的立場のある人らだ。決して間違った方向に行ってはならない。そして必ず結果を出さなければならない」
会合が終わって私は冷静になりました。
いつだったかK記者は言いました。
「ファンも業界の住人になって欲しい」
これは言いかえればファンもただの傍観者ではなく、主体者としての自覚と行動を持って欲しいとの思いからだったでしょう。
私の中ではこの晩、形だけでは無く本当の意味で主体者としての自覚が芽生えたと感じました。
ファンとして愛すべきボクシングとボクサーらの為に今自分達が出来る事を真剣に考えよう。
皆でコミッション役員や業界関係者に取材をしよう。
そして生の声と熱を聞こう。
それを皆で持ち寄って話し合おう。
二次情報を鵜呑みにせず、ファン自身がまず苦労しよう。
それが自らの勇気と自信につながるはずだ。
私は第1回会合の前にK記者に尋ねた事がありました。
「Kさんもこの会に合流するのですか?」
「いや、僕は記者の立場がありますので公平な立場を保つ為にも参加しません」
私はさすがに以心伝心だなぁ、と勝手に解釈し安堵しました。
会が抗議行動を起こした場合に万一問題があったとしたら、彼にまで責任が及ぶ事を恐れたからです。
「K記者のこれはお墨付きだ。これはブログとの共闘ではなくファンの自立した会だ。責任はもはや自分らにある。思い切り暴れてやるぞ!」
私の思いと方向は今でも間違ってはいないと信じていますが、この時はまだ彼との微妙な感覚のズレと、その後に彼が現す明らかに特異な思考性には些かも気付いていませんでした。
続く・・
このK記者は、人に対し極端にガサツな面がありながら、繊細な優しい面も持ち合わせていました。
特に猫に対してはここまでするか、というほどの愛情を持ち合わせていました。
縁あって彼が拾った子猫を貰いました。
私は子供の頃にペットロスを経験していましたので、決断するまで数ヶ月かかりました。
決心させたのは彼が里親探しのビラを撒いている姿を見たからでした。
「放っておけない・・」
家人を説得し二匹の子猫を育てる事にしました。
その子猫たちは立派に成長し我が家の家族となりました。
これで彼とも親戚になったつもりになりました。
いつしか彼を弟のように思うようになりました。
ですから言いたい事も言えました。
彼は冷酷な面がありましたから、それを指摘した事もありましたがそれは偽りない愛情の表現でした。
思えば彼には理解出来なかったのでしょう。
それはそれで仕方ないと今は気にも止めていません。
それよりも、私自身のボクシングへの思いと現状への怒りを業界に、そしてファンに伝えてくれたK記者には今でもその一点を感謝しています。
また、彼の影に隠れるようにして亀田兄弟に石を投げて来た自分が、いつ表に出て発信するかが私の重要な課題であり、責任であると常に考えていました。
友人の一人からは「いかに義憤があったとしても、君がやっている事はK記者と同じではないのか?むしろ君がK記者を利用したのではないのか?」辛辣な親友の言葉でしたが弁解の余地もありません。
表で戦うK記者の為に情報源として身を隠す必要があるとも考えましたが、自分なりの大義があったとはいえこの数年間は男としてなんと生き心地の悪かった事か・・。
この回想録も何れ娘たちにも知られる事になると思いますが、しかしそれでいいのです。
このきっかけを与えてくれた友人ら特にMさんや、協力して頂いた方々、様々な激励やアドバイス、また証言を下さいました業界関係者の皆さま方にあらためて心から感謝いたします。
ここからの回想はおそらくは多方面に渡り紛糾の種になるかも知れませんが、これまでの責任は一身に背負うつもりです。
卑怯者の謗りを受けながら生きるよりも、男として死ねるならばそれこそが本望であります。
続く・・
その後これまでブログ上で関わった幾人かの方々とはスパーリング大会や忘年会などに参加あるいは出席させて頂いた折に面識が出来まして、同じボクシングファンとして親交を温めてまいりました。
現在に至るまでの経緯は友人である「ウチの猫の名は穂積」さんが書かれるかと思いますので、私は私自身の事について書いて参ります。当ブログの公開日が間近という事で先を急がせていただきます。
さて、そのブログ上ではしばらくK・H氏とアンチ亀田(ブログ読者)の攻防が繰り広げられていました。
当事者とも言える私はそれこそ手に汗握る思いでおりましたが、記事についての抗議を展開するK・H氏の論調が次第に変化していく事に気付きました。
K・H氏の発言は、初めは言葉厳しくも論旨が明確であったものが、次第にファンを愚弄する内容になり、最後は意味不明の宗教的な言葉が散りばめられ、人格が破綻しているのではないかと思われるほどになっていました。
はたして実名で投稿している実在の人物が、ファンを愚弄するような、そしてボクシングを貶める発言をするのだろうか?それがそのまま自身の評価に返ってくる事に気づかないのだろうか?
その後K・H氏と思われる人物は「日本ボクシング振○会」と名乗りこのブログの名物的投稿者になりました。
相変わらずブログ読者を愚弄する内容や時に脅迫じみたものまでありました。
まったく素朴な疑問でしたので、K記者に質問した事がありました。
「本当にあれを書いているのはK・H氏本人なのでしょうか?」
「本人かどうかは判りませんがIPアドレスは同じです。同じ内容の脅迫電話もありました」
「・・・。」
このK・H氏は実際に亀田家を支援する人物ではありますが、ネット上で調べると、過去の思想事件や世界○○連合という団体にもその名があり、K記者から聞いていた評判とその内容が一致するものではありました。
その他にもK・H氏に絡む人物の画策により、「一緒に亀田問題を追及している大手新聞社の先輩記者がまったく身に覚えの無い罪で三宮警察署に逮捕された。この所轄の署長は画策した人物とつながっており自分にも警察の手が伸びている」
「これまでの取材データなども押収される可能性があるので、パソコンデータを分散したい」とまで言いましたので、世の中にはそんな事があるのか!と思いつつも必死の彼を信じるしかありませんでした。
たかがボクシングのことで・・警察まで動かせる人物が背景にいる・・
さすがに無鉄砲な私も「正当な理由で投獄されるのならまだしも、冤罪によってこの記者を抹殺してはならない。落ちる時は一緒だ」と一蓮托生の覚悟を決めました。
実際の彼は人懐こく素直な面があり、これまでのプライベートなメールのやり取りや会話から、少なからず好感を持っていました。危機に当たって落ち込む彼を激励した事も度々ありました。
彼は自身を謙虚に語り、そして時々は弱さを見せましたので、これがまた彼の魅力となって映りました。
冤罪で拘留された彼の経験談を聞きましたが、それがあったにも関わらず意気消沈する彼が目の前にいる。
私は精一杯もてなし、勇気付けるよう努力しました。
彼は言いました。「再び戦う元気が出ました。ありがとうございます!」
やがて彼は私の中で正義の記者になりました。
彼がゴシップ記事を書いている事も知りましたし、際どい取材方法も聞きました。
しかし既存の媒体が書けない事を書いてくれている。何より私を信じてくれている。
泥中にこそ真実のライターはいたのだ・・と。
続く・・

2010年10月11日、この日のメインでは、清田祐三選手が二つ目のOPBFタイトルに挑んだ試合で、衝撃の1ラウンドKO負け。しかし筆者にとっては、その四つ前の試合のショックの方が大きかった。
対戦相手の木村毅選手(緑)には申し訳ないが、正直、負ける可能性は皆無と思われた試合。
その内容について触れようとすると…
三谷会長(以下M)「司の口から言わせると言い訳になってしまうので僕から言いますが、あれは減量(が原因)です」
M「体が成長しているのが明らかだからこそ、直近はスーパーフェザー以上のウェイトで試合をしていたので、あの試合の58.0kg契約には反対したんですが、そのまま決まってしまいました」
M「1階級下のタイトルマッチに出るチャンスがあるとかいうならまだしも、特に大きな試合でもないのに、少しずつ上げてきたウェイトを急に落とすんですから、スタミナも気力も萎えてしまいますよ」
レコードを見ると、フェザー級で8試合したのち、スーパーフェザーで2試合、60kg契約で2試合。
17歳でデビューし、この試合が20歳になって最初の試合。この年齢の三年といえば体は急成長する時期と思われるが、実際に身長もデビュー時の170cmから176cmまで伸びたという。本人としてはそのあたりどうだったのか。
S「確かに最後は、咽喉に指突っ込んで吐かなければならないような状態でしたから、減量苦もあったとは思います。しかしあの試合に関しては、魂が抜けていました。それが敗因だと思います」
S「それまでは、それこそ相手を殺すくらいの勢いで試合に臨んでいました。向かってくる敵を倒し、踏み台にして自分の幸せを掴み取るのがボクシングだ、と。あの試合ではそういう気持ちがなかったです」
S「中途半端な気持ちでは、あのリングに棲む魔物にやられてしまうんです。あの敗戦で学んだことは技術的なことではなく、本当に覚悟を決めてやらなければいけない、というメンタルの部分でした」
初の敗戦のショックで寮も飛び出してしまった斉藤選手。
それでも翌日には走り始め、二日後にはボクシングの虫が疼いて仕方なかったというが、時間がたつにつれ考え込むことが多くなっていく。
S「色んなことを考えてて、走りに行く時以外は、ほとんど引きこもり状態になってしまいました。」
S「何もしていないと自然とボクシングのことを考え、すると一番近い記憶として負けた試合のことを思い出し、ドップリとはまってしまう、という繰り返しでした」
そんな弟を見かねた斉藤選手のお兄さんが、することがないなら働いて金を稼ぐ経験をしてみたらどうだ?と、自身が勤める会社へ誘い、斉藤選手は営業マンとしてデビューすることに。
S「営業の仕事も、やってみれば当然奥が深いので、それに取り組んでいる間はボクシングのことを考えずにすみました。とにかく、何かしてないとボクシングのことを考えてしまい、そうするとまた、一番新しい記憶の負けた試合を思い出して落ち込んでしまって。あの頃は本当に病んでいました(苦笑)」
━でも、この一年があったから…というかたちで今後の成長につながれば
S「はい。自分はポジティブ思考なんで、この一年があって、今こうして頑張れてると思ってます!」
M「普通の選手なら、この一年でやめてますよ。自分の周囲の人間や、ジムを取り巻く環境も大きく変わってしまったし」
M「僕から帰って来いというわけにいかないから、司が自分から戻って来るのを待ちました。それでも最初に戻った時は突っぱねたんです。そして三回目に来た時に、彼を再び迎え入れることにしました」
M「この一年は、再びこんな酷い事態をおこしてはならない、という教訓として肝に銘じていきます。ここを乗り越えられたら大丈夫ですよ」
輝けるホープがふとしたキッカケで転落していくのは、何もボクシングに、いやスポーツに限った話でもないことであるが、身近に接した選手となれば、したり顔で「そんなこともあるよね」なんて能書き垂れる気分にはなれない。
ただただ「おらがヒーロー」の復活を待つのみである。

生まれて初めての習いごととして小学6年生からボクシングを始めたという斉藤選手。
いかにもヤンチャでスポーツ万能なチビッコ時代を想像するが…
斉藤司(以下S)「ボクシング以外のスポーツ歴はありません。体育も得意じゃなかったし。他のスポーツをやらせたら唖然とすると思いますよ(笑)。まともにバットも振れないですから」
━ではなぜボクシングを?
S「家庭環境が複雑だったので…強くなりたいという思いから自然と、ジャッキーチェンの映画や、K1のような格闘技を見るようになりました」
S「そしていざ自分がやることになった時、キックや空手の道場もありましたが、蹴りには魅力を感じなかったので、当時の家から近かった木更津のボクシングジムに見学に行ったのが最初です」
S「プロの練習を見て凄いなと感じるとともに、この人たちは殴り合いしてお金もらえるんだからおいしいな、と思ったんですよね。実際はそんなに甘いものじゃなかったですけど(笑)」
━ボクシングを始めた当時の状況は?
S「母親によると、当時の僕は、帰ってくるなりボクシングの話しかしなかったと言っています。勉強もおろそかになっちゃったし、友達と遊ぶこともなくなるほどボクシングにハマってしまいました」
S「最初は鏡の前でワンツーの練習をするだけなんですが、それだけでも楽しくて。プロ選手のスパーリングを見ながら、いつか自分も…とワクワクしていました」
とかく子どもの頃は、そうした基礎の繰り返しでイヤになるパターンが多いと思うが、逆にどんどんボクシングにのめり込んでいった斉藤選手。2007年6月に17歳になり同7月にプロテスト合格。そして9月にはデビュー戦が決まる。
S「デビュー戦は世界戦の前座の第一試合で、お客さんもガラガラなんですがものすごく緊張しました。格闘技ゲームをやっているような感覚で、視界も目の前しか見えないような感じで」
S「結果は2回TKOで勝ちましたが、3戦目くらいまでそんな感じでしたね。他の選手もこんな感覚で試合しているのかな、と」
今では三谷会長をして「斉藤よりハートの強い選手はいない」と言わしめる男も、デビュー当時はやっぱり人並みに緊張したようである。
その後の成績も順調で、5戦5勝3KO、判定の2試合もほぼフルマークというレコードで東日本新人王戦決勝に勝ち上がった斉藤選手。
かつて緊張に震えていた彼は、どういった心境でこの日を迎えたのか。
S「会長からも、お前は新人王を獲れると言われていましたし自信もありました。その上で、ただ勝つだけじゃつまらないから、東日本も全日本もMVPを獲ってランキング入りすると宣言していました。練習ノートというのをずっとつけているんですが、当時のノートにもそう書いていましたね」
S「結果、公約を実現できたんですが、プロ入りして初のタイトルですから、やっぱり嬉しかったです」
個人的には、この翌年から三谷ジムのスパー大会に顔を出すようになり、所属選手たちに一層の思い入れを持って観戦するようになったが、無敗のまま突っ走る斉藤選手はその筆頭であった。
次なるターゲットに選んだのはレイジングバトル。「名実ともに」という言葉通り、自分の拳次第で実際に大きな「実」を獲れる、瀬端氏企画のこの名物トーナメントでもMVPを獲得。
戦績だけ見れば、もうタイトルマッチをやってもいいような数字でありながらチャンスは訪れず、日本ランキング下位にすら入っていない。頂を目指すにはどういったルートがいいのか…
そんな中、無責任なファンからすれば、ブランクを作らない為の調整試合のように見えた次戦で、落とし穴が待っていた。

このブログの目的の一つに、選手やOB・指導者といったジム関係者やプロモーターの方々など、業界人の皆さんと積極的に交流し、その模様をお伝えすることで、ファンと業界のよりよい関係作りに寄与したいという思いがあります。
そこで今回、当ブログインタビュー企画の、記念すべき第一回目のゲストとして登場頂くのが、日本ライト級第10位(2012年2月現在)、三谷大和スポーツジム所属の斉藤司選手であります。
筆者が彼を初めて見たのは、2008年11月の東日本新人王決勝戦。
パンフを開いてまず目についたのは、まだ歴史の浅いはずの三谷ジムが、この決勝に4人の選手を送り込んでいるという快挙。中でも、厳しい環境で少年時代を過ごした過去を持つ斉藤選手は、とりわけ異彩を放つ存在感がありました。
しかしそこは、ひねくれ者のボクシングファンの常として(笑)、「サイドストーリーは二の次!」ということでリング上のパフォーマンスに注目したわけですが、その目の前で、新人王レベルでは滅多にお目にかかれない、きれいな右ストレートのワンパンチKOを見せてくれました。
以来、ボクシングスタイルだけでなく、現代人(若者、大人に関係なく)にはあまり見られない、激しいほどの感情のエネルギーを感じさせる彼の試合に魅せられ、同時に、三谷会長とも接する機会を得られたこともあり、イチオシ選手として応援することになったのです。
その後、レイジングバトル60kg級優勝・トーナメントMVPを奪取するなど、順調かと思われたキャリアでしたが、格下相手にまさかの初黒星から長期のブランクを作ることに…
ただ、これで終わる男ではなかった。決まった再起戦の相手がいきなりライト級のランカーということで、自分含め(ゴメンナサイ)大方の不利予想の中、丸山選手を3回TKOで降し、これ以上ない見事な復活を遂げました。
今後は当然タイトル戦線も見据える中、まずは4月1日に石川昇吾選手(新日本木村)との試合が決まった斉藤選手に、色々お話を聞かせてもらいました。
これからも斉藤選手には何度でも登場していただきたいと思ってますので、今回はいたってオーソドックスな質問が多くなりましたが、次稿からその内容をご紹介していきましょう。
書いている途中でふと思った。
実際に利益を生む訳でもない個人の回想録を書くにしても相当の勇気と覚悟は必要だ。
人は一人で生きているわけではないから、現存する人達への影響を考慮するのは当然の事だ。
勿論、両刃の剣となって自らを傷つけるかも知れない。
友人や知人や家族をも巻き込む事になるだろう。
事実を書いた所で即ち正義とはならない。
私は馬鹿者と言われるだろう。
百歩譲っても蛮勇と言われるだろう。
人も離れるかもしれない。
しかし、これまでもずっと「これが自分!」と生きて来たじゃないか。
自ら信ずる処の信条に懸けて、元気一杯、勇気をふりしぼって書こう!
自らを取り戻せ!
真実は何だったのか?
真相を明かし問題提起の為には、やはり書かなければならないのだ。
私は今、正義の旗の下にいないかも知れない。
しかし、正義をふりかざし欺瞞に満ちた心で人々を扇動しようとした輩がいる。
欺瞞は最後に人を苦しめる。
どうしようもない悲しみに人を突き落とす。
その後に心が空虚になった人々は不幸だ。
だからこそ今、
欺瞞と虚言の人を許してはならないのだ。
2007年10月11日を境に亀田家を取り巻く環境も変わりました。
これまでも一部メディアやファンの痛烈な批判はあったものの、業界を挙げて亀田兄弟を次代のスターにしようという空気は確かにあったと思います。事実ビジネスとしても業界大手の支援があったと後に知りました。
しかし以降、専属トレーナーも引き上げられ満足な練習も出来なかった事でしょう。
この外国人トレーナーは前に書いたS.Aの事ですが、それを夕刊紙は取り上げ連載の中で「専属トレーナー来日せず」の記事になりました。これは私の情報によるものです。
しかし、記事では「誰が、何故、何の為に彼の来日を妨げたのか?」という重要な部分までは書かれませんでした。
書いた記者は何れ1冊の本にしたいと言いましたので、事実を挙げ面っただけの記事でもこの時は私の記念すべきスクープ第一報と言う事で了承しました。何故書けなかった、あるいは書かなかったのかとの思いは飲み込みました。
記事は確かな裏取りが生命線ですが、彼が裏取りに失敗したか、あるいはその行動すら起こしていないと思われた事もその理由になります。
私は証言の出処を明らかにし、彼も直接それを確認したと言ってましたが・・
それともう一つある人物を今は敵に回したくないとの思いがあったかもしれません。
私は苦労して当事者2人の接触に成功し証言を得ていたので背景までも確信していましたが、この記者にとっては二次情報に過ぎなかったからです。
後に拳論でも紛糾の種となるR.GやR.Mらスパーリングパートナーの証言による「大毅負ける」の記事も私の情報からでした。
この時は09年10月に大毅選手の2回目の世界挑戦を直前に控えた時期でした。
デンカオセーンとの第1戦目で、このパートナーらは王者デンカオセーンの練習やスパーリングをタイで見ていた事もあり、その感触から「ダイキは勝てない」との本音を引き出したものが情報源となりました。
私としては試合の勝ち負けよりも亀田家にとっては言わば身内からこの様な発言が出たという事が、もはや「亀田家は鉄のカーテンではないのだ」とのメッセージを世間にアピールしたかった。
ところがこれが後に大きな波紋を呼ぶ事になります。
この比国人パートナーらの招聘をサポートしたKプロモーション代表 K・H氏(当時)が拳論のコメント欄にて取材方法についての抗議をしているというのです。
この時の事は鮮明に覚えています。
記事が世間に出た翌日の深夜11時頃に記者から電話がありました。
「K・Hから連絡があり裁判も辞さないとの強硬な抗議がありました」
興奮すると出るいつもの早口が更に速くなり、非常に慌てた様子の彼の声に尋常な抗議ではなかったのだろうと想像し、先ずは落ち着かせる事に専念しました。
彼にとってはまたもや二次情報になる訳ですから記事に確信を持てなかったのかも知れません。
「落ち着いて下さい。大丈夫です。これは本人らが僕も含めて4人の前で話した事ですから」
「それに裁判なら願ったり叶ったりです。戦いましょう!僕だけでなく本人を証言台に立たせますよ!」
最後に「信じています」と言った彼の言葉に彼のすべての迷いがあると感じた私は、いよいよ証明をする時が来たと感じました。
その後拳論のコメント欄を見ると確かにK・H氏の名前で理路整然と記事に対する抗議の主張が繰り広げられていました。
K・H氏の主張の骨子は「彼らも現役ボクサーであり、スパーリングパートナーとはいえ正式に契約を結び正当な業務によって招聘された契約関係者である。したがって一方の契約者の許可も無く、公式な取材機会を設けずに行われたインタビューは無効であり公けに報道するべきではない。今後この様な事があれば法的手段も辞さない」という至って正当な内容でした。
しかし、我に正義ありと信じ疑わなかった私は猛然と反論を繰り返しました。
この時は「砂上の楼閣探検隊」という対亀田爆撃の為に用いたふざけたハンドルネームだったと思います。
相手は正々堂々と実名を名乗って抗議している訳でしかも主張の要旨も概ね正しい。
私は、ただひたすら事実を述べる事が正義と信じ、それは熱病に侵されているかのようでした。
「ここで退いてはならない。敵が目前にいるのだ。これまでは草木に隠れて石を投げて来た。これは卑怯だ。
これからは堂々表に出て戦うのだ」
まったく冷静の欠片さえありません。
続く・・